雨上がりの空気に漂う、あの独特の匂い。「ペトリコール」という名前で知られるこれは、単一の物質から来ているわけではない。植物由来の油分、土壌微生物がつくる化合物、雷が空気中に生じさせるオゾン…、それらが入り混じった複合的な匂いだ。
なかでも「土の匂い」の主役が、ゲオスミンという有機化合物である。
ゲオスミンとは何か
土壌中の放線菌(Streptomyces属など)や藍藻が合成するこの物質は、化学的には二環式アルコール、デカヒドロナフタレン骨格を持つ。乾燥時に活動を落としていた放線菌は、雨で水分が届くと動き出してゲオスミンを放出する。それが大気に広がり、私たちが「雨の匂い」と呼ぶものになる。
人間の鼻は、この化合物に異様に鋭い
『人間の嗅覚は犬などに比べて鈍い』というのが通説だ。ところがゲオスミンだけは別の話になる。
検出閾値は約5 ppt(1兆分の5)。空気分子1兆個のうちゲオスミンが5個あれば、人間はその匂いを感じ取れる。よく比較に出されるのがサメで、血を感知できるのは概ね1 ppmから10 ppb程度とされる。スケールで見ると、人間のゲオスミン感度はそれをはるかに上回る。しかも個人差が小さく、ほぼ全員が同等の感知力を持っている。
何かおかしい、と思うのは自然な反応だと思う。なぜ、このひとつの化合物だけに?
サバンナで水を探していた祖先たち
現時点でもっとも説得力のある説明は、進化的な「サバンナ仮説」だ。
現生人類の祖先が暮らしていたアフリカのサバンナは乾燥地帯だった。水源を見つけることは、食料を探すのと同じか、それ以上に切実な問題だった。雨が降ると土壌の放線菌が活発になり、ゲオスミンが放出される。その微量な匂いをいち早く感知できる個体は、他より早く水場を見つけられた。自然選択が、世代を重ねてゲオスミンへの嗅覚感度を研ぎ澄ませた、というわけだ。
証明できる仮説ではない。だがこれほど特化した感度がある以上、それに見合った理由が過去にあったと考えるのが自然だろう。
土の中の、地味な共生
ゲオスミンをめぐる生態系の話も興味深い。土中のトビムシなどの小型節足動物はこの匂いに引き寄せられて放線菌に集まり、食糧を得る。放線菌はその代わりに、胞子を遠くへ運んでもらう。匂いが仲立ちする、目に見えない物質循環だ。
現代社会では「困った問題」にもなる
人間がゲオスミンに敏感であることは、現代においては実務的な頭痛の種でもある。
水源に放線菌が繁殖すると、水道水にわずかなゲオスミンが混入する。衛生上の問題はなくても、人間の鼻はそれを嗅ぎ取る。「カビ臭い」「土臭い」という苦情が入り、浄水場では活性炭処理などによる除去が必要になる。ワインでも同様で、果皮に付着した土壌由来のゲオスミンが発酵後に異臭として現れることがある。
数十億年前に土壌微生物が偶然作り始めたこの化合物が、現代の水質基準や食品管理に影響を与え続けているのは、なかなか皮肉な話だ。
よく私たちが感じるあの匂いは、人類と地球の歴史を物語っている。
